こんにちは。司法書士の片岡和子です。
朝から暑いですねえ~。
(東京は、ですけど。)
写真は、たぶん栗だと思うのですけど、出勤途中で見つけました。
こんなに暑くても、やっぱり季節は進んでいるのですね。
さて、このブログでも何度か書いたことがあるのですが、私は以前、訪問介護のヘルパーをしていたことがあります。
その頃に感じたいろんな「もやもや」については、今でも折に触れ思い出します。
単純に「思い出す」というよりは、「ひっぱり出してきて再検討してみる」という感じかもしれません。
たとえば・・・
「ヘルパー2級」の研修カリキュラムの中に、現場での実習がありました。
ヘルパーとして働いている方に同行させてもらって、訪問介護を受けておられる方のお宅に出向くのです。
私は、一人暮らしの高齢者のお宅に足を踏み入れるのは初めての体験でした。
行ってみて、その惨状に息を飲みました。
テーブルの上には前日の食べ残し。
衣服は畳まれもせずに積み上げられている。
引率をしてくれたヘルパーさんが言うには
「もう在宅は限界だわ。家族はどういうつもりなのかしら。この状況を何とも思わないのかしらね。息子がいるらしいけど、面倒見るつもりがないらしいわよ。ひどい話よね。ケアマネからも、もっとちゃんと息子に意見すべきだわ。」
私は、そのとおりだと思いました。
あれから何年も経ちましたが、この時のことはずっと「もやもや」のままでした。
担当のケアマネさんの意識が低かったのだろうか。
それとも何か特別の事情があったのだろうか。
それが、最近になって「もやもや」の正体に気がついたのです。
どうやら「もやもや」の原因は「年老いた親の面倒は子供が見るべき」という考え方のようなのです。
この考え方が正しいとか間違っているとかいう問題ではありません。
私自身が、自分の内側に同様の価値観を持っているらしい、ということ。
そして、事案を見る際に、この価値観を通して見ているらしい、ということ。
物事を見る目に、フィルターがかかっているのですね。
じゃあ、フィルターを外せばよいのか?
というと、どうもそう単純にはいかないようです。
そもそも「何のフィルターもかかっていない純粋な見方」なんてものは存在しないんだろうと思うのです。
だったらどうするか、というと「自分にはどんなフィルターがかかっているのか」ということを意識してみることなんだろうな、と思います。
自分がどんな価値観を持っているかを点検してみる。
その上で、事案を見直してみる。
数年前の実習の件も、自分が「年老いた親の面倒は子供が見るべき」という考え方をしがちである、という自覚を持った上で向き合っていれば、何か違うものが見えていたかもしれないなあ、と思います。
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