【読書日記:呆けたカントに「理性」はあるか】認知症高齢者と胃ろうの選択

こんにちは。司法書士の片岡和子です。

 

東京の桜もどんどん散っていきます。

舞い散る花びらは儚くて、ちょっと悲しくて、でもキレイ。

 

今日は読書日記です。

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呆けたカントに「理性」はあるか

大井玄

新潮新書

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タイトルからは何について書かれた本なのか、すぐにはわからないと思いますが、「認知症高齢者と胃ろうの選択」について考察した本です。

認知症になると判断力を失う、と単純に考えている方は多いと思います。

実際、鍵を失くしたり、迷子になったり、お金の管理ができなくなったり・・・ということが起きてきますから、「能力の低下」があることは確かです。

でも、「判断能力の低下」といっても、様々な態様があるのです。

私は成年後見関連の仕事をしているので、認知症の高齢者と接する機会が多いです。

成年後見の世界では主に「財産管理の能力」に注目をして、サポートの必要な方に後見人や保佐人がつく、ということが行われます。

ですから、「財産管理は全くダメだけれど、その他の面での判断力はある」という状態の方もいらっしゃいます。

かなり進んだ重度の認知症の方にお会いしに行って、楽しくおしゃべりをして共に過ごす、ということもあります。

私の顔も名前も覚えておられなくても、「嬉しい」「楽しい」「これはキライよ」「不快だわ」という気分は伝わってくるのです。

さて、この本の話に戻ります。

著者は医師で、胃ろうの選択を迫られている一人の認知症高齢者に直接尋ねてみたところ、はっきりと「イヤ」という意思を示したことに驚きます。

その後、複数の認知症高齢者に同様の問いかけをしてみたところ、「嫌だ」という意思表示をする人が多いこと、その際に示す情動が見過ごせないものであることに問題意識を抱きます。

この本では、この意思が尊重されるべきものなのか、様々な視点から丁寧に考察されています。

この本が効くのは、例えば

「認知症の親が胃ろうをイヤだと言っている。でも認知症の人の言うことをそのまま受け入れていいものだろうか? イヤだというのは理性を失っているからなのではないか?」

と悩んでいる方などだと思います。

難しい内容も含まれている本で、読み通すのには少し苦労するかもしれませんが、きっとどこかにヒントが見つかると思います。

ところで、タイトルの『呆けたカントに「理性」はあるか』とは一体なんのこと? と思われるでしょう。

カントについて私には「偉大な哲学者」という以上のことはわかりません。

著者によると、晩年のカントは「呆けた」のだそうです。

親しかった人の顔もわからなくなり、でも、訪ねてきた人には大変立派な態度で接したのだということです。

この態度は「理性」と呼んでもよいものだったのではないか。

カントが自身の哲学の中で展開した「理性」とは異なるものではあるけれど、それはやっぱり「理性」なのではないか。

そして、それは現代の認知症高齢者が胃ろうについて「イヤ」と言う時と同じ性質のものなのではないだろうか・・・。

そんなことを著者は考えたのだと思います。

ご興味がおありでしたら、読んでみてください。

 

 

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2019年4月9日 | カテゴリー : 読書日記 | 投稿者 : Kazuko Kataoka